The information below is the Japanese translation of the English-language exhibit “Baseball’s Bridge Across the Pacific: Celebrating the Legacy of Japanese American Baseball.”
以下の情報は、英語の展示「野球がつなぐ太平洋—日系アメリカ野球の遺産を称えて」の日本語訳です。
太平洋を越えた野球の架け橋
日系アメリカン野球の遺産を称えて
“僕がここでプレーできるのは、道を切り開いてくれた先人たちのおかげだと強く感じています。”
— 大谷翔平
写真(左から右):
ジョン・ナカガワ、ルー・ゲーリッグ、銭村健一、ベーブ・ルース、フレッド・ヨシカワ、ハーヴィー・イワタ
カリフォルニア州フレズノ、1927年10月29日
日系(日系アメリカ人)野球の先駆者である銭村健一らは、太平洋を越えた野球の架け橋を築く上で大きな役割を果たしました。1920年代から1930年代にかけて、彼らは国際親善試合のツアーに参加し、日本におけるプロ野球の発展に大きく貢献しました。
ベーブ・ルースはこのフレズノ訪問の際、銭村に依頼し、日本の関係者への手紙キャンペーンを開始させました。銭村はこう記しました。
“ベーブ・ルースは日本を訪れたいと考えており、私にその手配を依頼しました… 彼が日本でプレーすれば、多くの観客を引きつけると信じています。”その後、ルースは1934年に日本を訪問し、歴史的なツアーを果たしました。

第二次世界大戦前 (1872-1941)
“野球のユニフォームを着ることは、アメリカの国旗を身にまとうことと同じだった。”
— 須尾武雄(Takeo Suo)
(左列)
(上)
ホノルル朝日(Honolulu Asahi)は1915年、ノダ・スティア(Steere Noda)(中列左から3番目)によって設立され、日本遠征を行った最初の日系ハワイアンチームの一つとなりました。その後、ノダはアジアでニグロリーグの監督を務め、ハワイの州昇格運動に尽力し、さらに日米親善に貢献した功績が認められ、**1968年に日本政府より「旭日章」**を授与されました。
(下)
フジ・アスレチック・クラブ(Fuji Athletic Club)は、1903年にカリフォルニア州サンフランシスコで小圃千浦(Chiura Obata)(写真右下)によって設立されました。彼の息子である小圃豪(Go Obata)は、HOK Sportを共同設立し、ボルチモアのカムデン・ヤーズやデンバーのクアーズ・フィールドなど、メジャーリーグ球場の設計を手がけました。
(中央列)
(上)
フレズノ・アスレチック・クラブ(Fresno Athletic Club)が1927年4月、東京・明治神宮野球場で試合を行いました。銭村健一(Kenichi Zenimura)(前列左から3番目)は、1924年、1927年、1937年の3度の日本遠征を率いました。1936年に日本でプロ野球が誕生した後、日本の野球関係者は、銭村をアメリカのプロ野球選手と見なしたため、1937年のツアーではアマチュア試合への参加を禁止しました。
(下)
**フィラデルフィア・ロイヤル・ジャイアンツ(Philadelphia Royal Giants)の捕手オニール・プレン(O’Neal Pullen)が、日本野球殿堂入りすることになる浜崎真二(Shinji Hamazaki)と握手を交わす場面。(1927年4月、ロイヤル・ジャイアンツの日本遠征)その後、浜崎は阪急ブレーブス(Hankyu Braves)**の監督を務め、複数の黒人選手をアメリカから招聘しました。球団オーナーが新たな選手に懸念を示した際、浜崎はこう言いました。
“黒人選手がいらないというなら、私もいらない。”
(右列)
(上)
フランク “レフティ” オドゥール(Frank “Lefty” O’Doul)が、1935年の東京ジャイアンツ(Tokyo Giants)のアメリカ遠征中に、チームの4選手とカリフォルニアで交流しました。スカウトたちは4人の選手をアメリカ球団に入団させることに関心を示しましたが、**1924年の移民法(Immigration Act of 1924)**による制限のため、日本生まれの選手は契約できませんでした。
(下)
1937年末、銭村健一はコノ・アラメダ・オールスターズ(Kono Alameda All-Stars)の選手兼コーチを務めました。**チームスポンサーのハリー・コノ(Harry Kono)**は、アラメダ体育会(Alameda Taiku Kai, ATK)を何十年にもわたり運営し、日本の新球団大東京クラブ(Dai Tokyo)のスカウトを務めました。その役割の中で、彼は1936年にジミー・ボナー(Jimmy Bonner)を日本に送り、プロ野球でプレーした最初の黒人選手として歴史を刻みました。